誰かによみもの 時々クスリ ほとんど無視

この情報は、鬱的なものの初期段階、予備軍などの方に効果的な場合があります。

ひとまずなんか感じたのだけど、いったんは風の仕業くらいのもんだろうとやり過ごして、2歩3歩ほど進んでやっぱ足止めて、やれやれなんてめんどうくさい性格なんだと苛立ちさえ覚えながらおんなじ分だけ戻る。凝視する標的ははたして何処、たいていあっさり見つけて観察範囲は周囲も含む。

はたしてこれは強迫観念だろうか。

生命力についてよく考える。よくといっても、他のいわゆる普通と言われる人たちが、通常どれくらい生命力について考えているかは不明であるけれど、週に一度はかならずと言えるほどこのテーマについて考えるような人間は、少なくとも多数派でないことくらいは察しがつく。野生動物界でいうところの生命力は、余分な思考や、ましてや建設的な複雑な思考とは縁遠いだろうから、それを評価するにあたっての観点もおそらくシンプルなものになるだろう。先に書いた、強迫観念やそれに近しい行動をとるに至る要素を持つ人間となると、その観点は思考同様に複雑で体系的なものになるだろう。こいつはややこしい。

危うさなんてものは言い出せばきりがない。すべてのことに絶対がない以上、心配事なんてものはいくらでも発想可能だ。それらまだ見ぬ将来のネガティブの対象が妙に一様に普及する世間とやら、そこにも危うさは潜んでいるように見える。

ずいぶん遠回しになったけど、冒頭の例の行動ははたして強迫観念だろうか。もう一つ疑問を加えるなら、強迫観念観念症とは精神医学でいうところのカテゴリの一つ。分類が得意な人間の今のところの解釈の結果。医学的分類がされているということは、おそらく現代社会において障害になり得る要素という位置づけであるからだと思われる。症の文字を省いたところでニュアンスはかわらないとして、はたして強迫観念は負の要素だろうか。こういうものの結論や、解釈を人間社会の多数派の見解をもとに自身に落とし込むことは、こいつはもう情報ドラッグの乱用としか言いようがない。規制していいレベル。

建設的思考を重ねていく人間にとって、情報の鵜呑みは時に毒薬ではないかと思う。健康体も解釈しだいでたちまち病弱になる。

少数派な習性保持者ははたして危ういのか。

まだ見ぬ将来の社会で、生命力の強い人の特徴リストに上がる常連になっているかもしれないし、それにさしあたって -程度問題はあろうが- この程度の習性でどれほどの弊害があるだろう。

この文章も情報です。
ちゃんと注意書きをつけましょう。

情報は、用法用量を自分の頭で考えて、程よく思考に組み込みましょう。
うまくいかない時は、程良い期間をおいて、症状が回復しない場合は、とっとと思考から吐き出しましょう。

それで済む点は、情報の扱いやすい要素でしょう。
知らぬ間の鵜呑み情報は、複雑な思考の中で、どこに解けたかわからない。これは残念ながら、悪さをすれば、病気の域にもなりかねない。

ご自身が鵜呑みされた情報によって、何らかの弊害が発生した場合、一切の責任は負いかねます。しかし、できる限りの相談には応じます。

2020,10,18 4.22付近
Shunji Matsuo