「幸福論」 序章

 

※度重なる途中降板に似た状況。でもやはり、丁寧な謝罪よりは、しっかり本質でお返しするつもりの執筆なのです。

 

 

 

では告知通り、返信メール転載します。そして、これは、私の“幸福論 序章“と位置づけます。

 

 

 

 

 

松尾俊治 「幸福論」 序章

副題:拝啓 Joie  ※ジュワと発音します。 ※No Editing

 

俺が主に大人になってから生きてきた中で、俺自身も含めて、何らかのメンタル的な問題を潜在的に抱えてる奴等がたくさんいて、実はそれって、決して少数派ではないんだけど、正直ジュワもそれに当たると俺は薄々推測してたよ。とか、若いころっていうのは精神的にはまだ子供で、社会のシステムも慣習も知らないし、何より自分のことを知らない。経験がないのだから当然なんだけど。何がしたいのかとか、どういうアプローチ方法があるのかとか、そもそも物事の本質とは何なのかとか。でも、分からない中でも、その時々自分のできる範囲で精一杯のことはしてきている。クオリティや完成度なんてものは、別にその地点ではどうでもいいことなんだ。ただ今の歳になって俺が気になるのは、社会の体質や常識のようなものが、ワクワクすることをするということに情熱を持ち活動し続けることをしにくくさせてる傾向にあることなんだ。そして、若いということは可能性は無限だけど、弱点もあるということ。それはジュワがそうだったように、「人生はまだまだ長いんだし・・・ 今しなくても、いつからでもまた再開できるし・・・」と考えがちだということ。そうやって、結局その時は楽だから、いわゆる普通といわれるライフスタイル、ワークスタイルを一時的なつもりで選択して、「なんとなくまあこれでもいいか、別に全く楽しくないわけじゃないし。」なんてことになりがちでしょ。そうやって、結局なんとなくの人生になっていくことってほんとによくあることなんだと思う。それでも幸せ感じれるようになっていける人が多いのも事実だけどね。それはそれで、一つの幸せの形だと思うし。ただ、本当にやりたいことがある人というのは、限られた時間の中で、なんとか活動しようとするもだし、そんな条件付の中でも、ちゃんとクオリティを追求していこうとする人は、いずれ突き抜けることができることもある。一番良くないのは、諦めた人生を送ることではなくて、やりたい気持ち引きずってるのに、心制御して不本意な人生を送ってしまっている場合だと思う。そういう違和感を未解決なまま惰性で過ごしてしまうと、軽いストレスからはじまって、いずれは鬱などと言われる段階に発展していくことがある。重い場合は日常生活に支障をきたすレベルに発展する場合もあるし。「私は鬱です」って自覚してない鬱状態の人って実際よくいるしね。

 

知ってると思うけど、俺自身の“鬱“経験の話ししとくね。俺の場合は、妥協ぎみの人生のくせに、時間をかけても消えてくれない違和感と向き合い過ぎて、それを思考で解決しようとして、結局強烈な鬱状態で死ぬ直前までいったんだけど。それを生き延びる経験をして、大切なこと気づいて、「もうやりたくないことはやらないって」決めたし。で、気づいたら今の状況になってたわけで。

 

メンタルの問題抱えてる人達に相談受けることはよくあって、相手の状況見ながらだけど、俺が紹介する思考活動があって。場合によっては副作用が強いから勧めない場合もあるけど。それは、

 

「過去の清算」っていう思考工程を踏むということ。

 

これは実際に俺が原因不明の鬱に苦しんでたときにしたことなんだけど、記憶のある一番古い情報から全部さかのぼって、一つ一つの記憶に対して、違和感やトラウマのようなものが残っていないかを確認していく作業なんだけど、これを古い順にさかのぼっていくと、ある瞬間、急に体が軽くなる瞬間がやってきて、思想とか、価値観とか、生き方とか、ライフスタイルそのものが“がちっ“と不動のものとして定着しているのを感じられるタイミングがくるだよ。もう分かるかもしれないけど、ここまで来てしまえば、もうあとは考える必要はなくて、心も含めた体が自然に向く方向へ歩き出せばいい。つまり、過去を清算し切ると、「現在とこれから」に照準の合った思考に自動で切り替わるように宇宙の法則が決めてるみたいで、生きてる今のこの瞬間の感じ方、その感度が抜群に良くなるわけ。これが真のリアリティってやつで、これを一回経験しちゃうと、もう戻りたくても戻れなくなる。伝わってるかなあ。これが俺の考える“幸福“の正体なんだよ。つまり、完全にライブ(=生)型思考になると、幸せを感じるわけ。で、一回この思考になれたら、戻したくても戻せなくなる。

 

人間という動物幸福スタイル生を営むってことも、宇宙の法則っぽいんだ。

 

多分、人は生まれながらに、デフォルト(初期状態)では幸福状態のはずなんだけど、その後の何らかの社会からの影響で、そうじゃない状態になってしまう場合というのは、現代ではとても多いみたいなんだよね。その証拠と言えるかわからないけど、面白いTV番組があって。仲の良い音楽家さんからもらった情報で、俺もその後、たまたま再放送で観たんだけどね。NHKのとある番組で、文明がほとんど及んでいない、見せかけじゃないと思われる原住民の村に取材に入って、住民に「幸せですか?」って問いかける記録があるんだけど、その人の答えは、「わからない」なんだよな。これ多分、幸せかどうかがわからないんじゃなくて、幸せってものが、どういう状態を指しているものかがわからないってことなんじゃないかと俺は勝手に思ってて。つまり、生まれた時のデフォルトのままだから、幸、不幸っていう概念がないってことじゃない?と推測してるわけ。そうなると、あのNHKの記録が気になってしまう。通訳がどんな種類の言語の、どんな単語を使って質問したかって。まあその話のそれ以上のことは別の機会に譲るけどね。

こうなると、なんだか俺の中でなるほど説明がついてくる。生まれた後の、人間社会での出来事や環境の中で、不幸思考に切り替わってしまった原因があるから、過去を清算し切ると、幸せ思考に戻せるってことが。で、それは、一度自力でデフォルト(幸せ思考)に戻せれば、宇宙の法則が大枠それを維持してくれるし、万が一危うい状況に出くわしても、もう一度切り替えた思考の履歴が残ってるから、そんなに頑張らなくても、痛手を負う前に、コンバート可能になっているってこと。これはぶっちゃけ、ロキソニンより効くかもよ。メンタルに対する処方箋は、思考の履歴にストックできるし、おそらく、西洋医学でいうところの副作用は、無いか、あってもほとんど影響がないか、どちらかの可能性が高い様に思えるし。それは、肉体世界=実体世界での、対処療法のようなカテゴリのものとは違って、メンタルに対する思考という薬は、根本治癒であるからではないかと思う。そう思っていろいろ振り返ってみると、意外と的外れでもないと思える例がいくつか思い当たるんだよな。

 

ちょっとマニアックかもしれないけど、中村天風さんは、クンバハカなどの呼吸法、瞑想法などの習得、修行を通して、結核を克服した例があるし。

 

チャネリングのバシャールさんのいうところの“ワクワクすることをやれ“みたいなメッセージも、つまるところそういう思考に切り替える為のヒントの様なものだと思うし。

 

アメリカの脳科学者のジル博士は、自身の実体験を書いた書籍の中で、これはまた興味深いんだけど、仏教でいうところのいわゆる“涅槃“という段階に至った時の僧侶の脳の周波数と、脳梗塞で機能を失って行く脳が、やがて多幸を感じさせる段階に入る時の脳の周波数との比較みたいなものを提示していて、類似しているといった見解だったんだよね。これって臨死体験で観る景色の話とか関わってる気がするし。

 

なんか情報がゴチャゴチャしちゃったな。ごめん。

 

俺が言いたいことは、

 

中村天風さんのクンバハカにしても、

ジル博士の“涅槃“という概念への考察の話も、

 

出所が東洋思想だってこと。

 

漢方薬なんかも東洋的発想のものだけど、これも、そもそもの立ち位置を“根本治癒目的“としているはずだし。

 

やっぱ、少なからず、俺が知ってる範囲の情報の中でも、各方面突き抜けてると言えそうな偉人達が、同じ様なこと言ってる気がするんだよ。

 

 

まあ、例え話はそれくらいにして、

 

そういう幸福思考になって、デフォルト状態の今の俺からすると、いくらかの人が言うような、やりたいことをしない言い分に対して、疑問を提示せざるを得ないんだよ。

 

現実は、家庭をもったり、目先の仕事なんかに事実上束縛されたりして、自由に多くの時間をそれにあてるようなことはできにくいんだけど、それらを理由に、活動ができないと言うのは少し違うと思っていて、許される隙間時間や、工夫によって創りだせる時間ってのは少なからずあるわけで。そういう、たっぷりじゃなくてもいいから、今そのときどき、できることからとにかくはじめてみる。で、他者に提示可能な何んらかの実体を創る。それができたら後はアウトプットするだけ。(※発表するかどうかはどちらでも良くて、

したいようにすればいい。)個人が情報発信する手段は、現代は選択肢だらけだし、それが、できない理由はみつからない。クオリティとか、完成度とか、発信にあたっての体裁とか、それらは、本来はこだわりたいけどやりきれない部分は確かにある。でも、それを理由に、発信したいのにしないのなら、社会から見たら何もしていないのと同じ。だから、できる範囲でやるしかしようがない。で、そうやって近場のできることからやって実体ができてくると、ちゃんとそれなりの道が出来てくるもので。でも、その道は、何らかのアクションおこした人にしか見えない。それも多分宇宙の法則だと思う

 

 

大切なことは、当然まず自分がそうでないと思うなら、

 

思考タイプをデフォルト(=幸福思考)に戻すこと

 

その次は、

 

大切な人がいるなら、その人達の思考タイプのチェックと、

必要に応じて助言をすること。

 

もしそれが子供なら、

 

ちゃんと生まれた時の思考タイプを維持できているか確認しなきゃいけないし、もし変わってしまっているなら、長く寄り添うしかないと俺は思う。

 

そしていずれにしても、

 

自身が幸福思考でリアリティ感じながら生きて、

大切な誰かに生き様ちゃんと見せること

 

だと思う。

 

なんでもそうじゃん。

 

仕事でも後輩に何か教えるなら、やって見せるのが一番伝わるんだ。

 

逆を言えば、

 

自分にできないことは絶対教えられない。できたとしたら、相手が優れてただけだろう。

 

まあいいか。熱くなるのは悪い癖だね。

 

 

 

俺がとにかく伝えたいこと言っとくわ。

 

幸せにしたいって思う大切な人がいるなら、

まず自分が幸せである必要があるし、

資格がないと思うなら、

一秒でも早く取得するべきだし、

誰でも取得可能だし、

取得したら、もう導けるでしょ。

 

これが

 

俺の一番大切だと思う、

地球社会に必要だと思う“文化継承の根っこなんだ。

 

だから俺は大まじめに、

自前メディア構築して、

文化自然普及活動してるつもりだよ。

 

それを大切な人から順に(これを俺は身近なものから順にと考えている)していく活動を、文化自然普及活動と呼んでいるわけ。

 

 

 

もし、ジュワが、本当にそうしたいと思うならさ、

 

共感と情熱!

 

この二つが伴ってると思うならで良いんだけど。

 

JOINTしてよね!

長くなったね、また話そう。

焚火でも囲ってさ。

 

 

Good luck !
by mateo=rich

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